TSUMARI 12年8月11日

【小学校での記憶】牧内彰

・小学校1年の時、クラスは4クラスあり1~3組は1階に教室があって4組は2階に教室がありました。
4組の人と鬼ごっこなどした時に4組の人たちは2階に上がり「ココまで来い」と挑発するのだが1~3組の人たちは2階に行くことが悪いこと&怖いという感覚があり上に行けかなかった。
階段を2~3段しか上がれず、そこから「ずるいぞー。降りて来い」と言ってた。

・小学校1年の時、クラスメイトの女の子が授業中に「トイレ」と言い出し、先生が「行ってらっしゃい」と言うも、その子は「トイレ」と言い動かない。
再び、先生が「行ってらっしゃい」と言うも、その子はまた「トイレ」と言い動かない。
その、やり取りが数回続き、その子は漏らして泣いた。

・学校の門を出たところに小さな工場(家)があり、そこではバッテリーか何かの電気の線を作ってたようでゴミとしてプラスチックのソケットに電線が付いているような物が出ていた。
そのゴミが生徒の中で流行だし、放課後はそのゴミを求めて生徒が工場に押し寄せてゴミを貰っていた。
何故あんなものが欲しかったのか?暫くすると、そのブームは去った。

・学校は坂を上がった所に有り、生徒は坂上と坂下に分かれていた。
坂上は3割、坂下は7割ぐらい。
私は坂上に住んでいたのだが坂下のイメージが暗い、怖い、貧しいであった。
多分、坂上の人間はそう思っていたと思う。
坂下に住んでる人は、一年中半袖、半ズボンの人や母子家庭(当時は珍しい)、給食費免除の人などが多く居た気がした。
また変質者が多く出たのも坂下だった。

・小学校5年ぐらいの時、下の学年にポーランド?から転校生が来た。
大使館の息子らしく本来なら外国人学校とかに行くのだが、父親の考えで日本の普通の学校で学ばせたいと言う事で入ってきた。
そういう特別な転校生なので朝礼で父親と供に紹介されていた。
その子はいつも数人に囲まれ「馬鹿、ウンコ」と言われていた。
その子は日本が全く分からないので真似して「バカ、ウンンコ」と半笑いしながら合わせて言っていた。
帰国する時に父親が朝礼に現れ「息子は皆さんに良くしてもらって日本語を覚えました。アリガトウ」と言った時に当事者ではないのだが胸が痛くなった。

・学校の隣が神社の森だった。
その森は変質者が出たり、『森は泣いてます』の張り紙が貼ってある木があったり、コンドームや藁人形が落ちてたりして薄気味悪い場所だった。
ある日の休み時間、森の中から外人が自慰行為をしながら校庭を覗いていた。
女生徒が悲鳴をあげ、先生が追いかけるが凄いスピードで逃げていった。

・小学校2~3年頃の時、当時アニメで【Drスランプ アラレちゃん】が放映されていた。
アラレちゃんのキャラクターで『巻き糞』があり、私は名前がマキウチなので一部から『まきうんち』と呼ばれ、ツーンツンをされ泣いた。
そのことを先生に言ったら、帰りの会で「皆、聞いて!牧内君のことを『まきうんち』言わない!分かったー?」と皆の前で言われ、
今まで言われなかった人にも『まきうんち』と呼ばれ暫く先生を信じられなくなった。

(牧内彰)

TSUMARI 12年8月11日

【小学校での記憶】佐久間麻由

プールの匂い。
わたしが通ってた小学校のプールは外にあって、雨が降れば一年中雨ざらしで、
夏になんとなくの掃除で使うプールのあのゴムの湿ったカルキの腐ったような匂いが鮮明に残ってます。
裸足で歩くプールサイドのあのジョリっとした、転んだらザザザーって怪我しそうな感じも大嫌いで、
それ以来、未だにプールとかスパのカルキの使った床を歩くのが苦手です。

机の匂い。
教室にある古い机は、給食の時に牛乳を零すと、
古ぼけた木の腐ったようなのと牛乳の乳臭い匂いを今でも思い出します。

給食台のパタンとしまうとこに挟まってる残飯のカス。

黒板を爪でギギギーとやる音。

掃除の時間に、椅子を乗せた机が重くて、教室の後ろに移動させるときのガガガーという音。
時々移動に失敗して机からバタンと椅子が落ちる音。

特別学級に通う、女の子。
私よりも2つ上で、休み時間は必ず、下駄箱がある校舎の入り口の壁に向かって(校舎外から)上履きを飛ばす。
時々、言葉にならない言葉を叫びながら。
その前を、見るとも見ないともせず、ブランコや鉄棒や砂場や校庭に走り抜けてく生徒たち。
その女の子は、時々私に何かをくれて。
何だっただろう。
何か忘れたけど、何かをもらってありがとうって言ったことがある。
何回か。

6年生の時、4階廊下の1番端の6年2組の教室で、教室の前の廊下の端には廊下と同じ幅のサイズの窓があって、
そこはいつも開いてて、というか、私がたぶん閉まってる窓をわざわざ開けていて、その窓が空いてるのが好きで、
そこから背伸びして、身体半分折り曲げて外に投げ出して、そこから下に見えるプールとウサギと鳥の飼育小屋を眺めるのが好きで。
や、好きだったかどうかは分からないけど。よくやってました。

その教室の前に細長く続く廊下を、休み時間になると、
先生がいつも座ってるあの動くイスと箒を持ち出して、
イスに座って、それを後ろから友達に押してもらって廊下とその廊下から続く広いホールを走り回るのが楽しかった。
そのホールには階下の給食室から給食が乗って運ばれてくる給食のエレベーターがあって、
わたしにとってそれは夢のエレベーターでした。

私が二年生の時の担任の先生。
帰りの会にいつも弾き語りのギターで一曲披露するのだけど、
まだ小さい私には、それが何を意味するか、どんな意図だったのか、何の歌だったかさえ分からなかったけど、
その前年は6年生の担任をしていて、その子たちの卒業式の後の帰りの会では、
卒業する自分の生徒たちに向けて最後の最後ギターを掻き鳴らしすぎてギターの弦を切ったほど熱がこもった歌だったと聞いて、
たぶんとても良い人なんだろうなぁと思っていたけど、私が3年生か4年生の時にその先生は他の小学校に赴任していってしまい、
そして私が5年生の時に、新聞に載ってたことでクラス中で話題になったのが、、その先生が車を運転中に小学生の子を轢いてしまったこと。
小学生の子は、軽傷ではありましたが、そのことで、教員免許を失ってしまったこと。
そしてそれが先生の過失ではなかったこと。

3年生の時の担任の先生は、口角の両側に唾をたくさん溜めて話す先生で、時々大きな唾を飛ばす女の先生。
それが原因かは分からないけど、私のクラスではその先生がイジメられるようなことが何度かあって、
始めはからかわれることくらいだったけど、ある日、クラスの1人の女の子がその先生をゴミの山に向かって思いっきり突き飛ばしたのを見て、
子供ながら衝撃的で、その時初めて大人の人が突き飛ばされる姿をみて動けなかった。

あとは。
うちの学校では、休み時間になると、“おまじない”をやることが多くて、
それは、校庭で遊んでたり外にいる時に、飛行機が飛んでると、飛行機に顔を向けて、片目をつむり、もう片方の目の前で両手をパンパンと叩いてから、その両手を広げた間から飛行機を眺める。
それを何十回もやると願いが叶うというもの。

OHPが私は好きだったみたいで、教室を暗くしてあの四角い物体の光の上に乗せたものが、白いスクリーンに大きくなって映し出されることが、
よく分からないけど、とてもとても興奮しました。

転校生ですが、私は小学校~高校年まで転校したことがなかったので、特に小学校の時の転校生は私にとって不思議な存在でした。
小学校卒業してから振り返ってみたら、誰が何年生で転校してきて、転校して行ったかがごちゃごちゃで、
ずっと居たような気がする子もいれば、6年間同じ小学校でも、居なかったように思う子もいます。
小学生の時は、中学~高校や、その後と比べて、本当に本当に小さな世界で、
クラスが私の世の中の全ての様に思えて、クラス替えをして違うクラスになった子に関しては、クラブ活動が一緒でない限り、すごく遠い存在になってしまってました。

私にとって、小学校の校舎は、小学校在学中~卒業して、その後高校2年生まで、
毎日のように、学校が終わった後や休日に一輪車の練習で通った場所でした。
いつも全校生徒集まって集会なのをしている学校の体育館で放課後、のびのびと一輪車を乗り回すのは一つの快感でした。
体育館にあるトイレが、すごく汚くて暗くて臭くて、たぶん何かいたんじゃないかなと思います。

避難訓練。
災害の訓練なのにどこかウキウキしました。
『◯◯室より、火災が発生しました。』に興奮。大抵、理科室や給食室でした。
「お菓子も」押さないかけないしゃべらないもどらない。

着衣水泳。
うちの小学校は、災害時の為の、着衣水泳の体験をわざわざ寒い時期にやっていて、ぶるぶる震えたこと。
一度に何十人も一斉にプールに入るのですが、靴を履いたままで入るのですぐにゴミが浮いて汚い水にの中に入るのが気持ち悪かったこと。

スプリンクラー。出席簿。日直。黒板消しクリーナーの音、舞う粉。ワックスのかかった床。を上履きで走る音。モップ。朝礼台。朝礼で鼻血を出す生徒。
ハンカチ落とし。お楽しみ会。
交換日記。あみだくじ。パラパラ漫画。運動会や音楽会の後に、廊下に貼り出される、番号がふってある思い出写真たち。掃除の時に流れる音楽。下校の時に流れる音楽。
あだ名。

(佐久間麻由)

TSUMARI 12年8月10日

【小学校での記憶】上村聡

いくつか思い出したことと、知人からきいた話をご報告いたします。

まず自分の話。

僕のうちは引越しが多く、二回ほど転校したため、郷愁とかローカルな思い出というのがあまりありません。
どちらかと言えば、その土地のルールに合わせることに必死でいつも緊張していました。

関東から関西に引越した時にはすぐに関西弁に直しましたし(子供は訛りに敏感だと思います)、
友達の家に遊びに行くとおやつがたこ焼きなのにも結構びっくりしました(ルマンドとかが主流だった気がする)。

学校の近くに国守町という同和地区があり、その地区の子たちに気性が荒くて、関東者の僕はちょっかいを出されました。
ある日、家に帰ってランドセルをあけたら中に生理用品が入っていてびっくりしたこともありました(その時はそれがなにかわからなくて捨ててしまった気がします)。

次に知人から聞いた小学校の思い出を。

〇長野県諏訪市の小学校で校長がちょっと変わっていた。割とスパルタな校風で体罰(定規で頭をたたかれる、など)。
基本、裸足生活。霜柱がたったら靴を履いていい。

遠足のお弁当の中身指定(おにぎりのみ。中身は梅干しのみ。おかず不可。水筒の中身は白湯のみ。)。
戦争中の擬似体験をさせるという意図だったそうです。

〇変わった係

「遊び係」。休憩ごとに新たな遊びを提案。
例えば、チームに分かれて、廊下に着ている服を並べて、長かった方が勝ち。男子は全裸寸前まで頑張ったそうです。

「うた係」。新しいうたを提案。
係が歌詞を配り、手本を示した後、みんなで合唱。替え歌もあったそうです。
ホールルームに実施。

〇朝礼での校長のスピーチ

「雨は神様のオシッコです」に、ショックを受けた。
その後、「水道水はみんなのオシッコをろ過したもの」というウワサが流れた。

〇変な校内放送

ある日、「これから校庭で、蛇の皮剥きをします」と放送が入り、嫌だなと思いながら校庭に出たら、そういう遊びだった(組体操的な)

〇太った同級生

いつも身体から湯気が上がっていて(首にタオル)、朝礼のときにどこにいるかすぐにわかった。

〇こわい上級生

まだ数をあまり教わっていない時期に、「100の次は?」と激しく問い詰められた。100の次にも数があるとは知らなかったので、非常に困った。

下校時、鉢合わせしないように気をつけていたが、ある日、遭遇してしまい一緒に帰る羽目に。
気まずい時間が流れるなか、いきなり踊り出し、「知ってるか、これがバレエだぞ!」と言われた。
気性が荒かったその上級生も妹が生まれて穏やかになった。

とりあえず以上です。

(上村聡)

TSUMARI 12年8月10日

【小学校での記憶】菊池明明

東部小からきた、五、六年生のときの担任の男の先生。
漢字テストのこたえあわせのときの「大勢」の発音がへんで、流行っていました。
「おお」にアクセントがつく。先生はこどものころ、排気ガスを吸うのが好きでよく車のうしろですってたそうです。
あとは新任で来たときの挨拶で、全校生徒の前で犬の遠吠えをしたりして、ユニークで好きでした。

ある女の先生のパンツのライン。
赤いジャージをはいていた先生は、黒板のしたのほうに字をかくとき、足を広げて腰をおとし、お尻をつきだして書くので、赤いジャージにパンツのラインがみえていて、気になってみてしまいました。

「先生、あのね」ではじまる日記を、クラスで、書く時間がありました。

東京からの転校生おしゃれでイラストがうまいやっちゃんが、ティッシュの中に遊びのお誘いを書いたのを私にくれてすごく嬉しかった。
やっちゃんのいるグループに憧れをもっていました。

東京からの転校生のHくん。
スポーツ万能で萩原聖人似、ランドセルはつかわずに、ワインレッドのリュックをしょっていた。
一方、絵がうまくて、芸術的な雰囲気のSくん。
HくんかSくんか、クラスの女子はたいていどちらかのことが好きでした。

教室で女子同士でキャーキャー盛り上がってたら、金切り声が耳にひびいて辛かったようで、Uくんという男の子が泣きながらぶちギレて、髪の毛わしづかみにされた。
すごい髪の毛ぬけて、びびった。

校庭の土が四年生くらいのとき、水はけをよくするために、茶色い土から、白っぽい砂利みたいなやつになって、こけてヒザとか怪我すると、すごいいたかった。
すれて血で赤い傷口に白いじゃり。

クラスだけのカラオケ大会でチャゲアスとシャ乱Qを歌いました。
机を前につめてステージにして、隣のクラスの子たちが後ろのドアの窓からのぞいていました。

いきものがかりで、夏休みなのでクラスで飼ってためだかの赤ちゃんを家にもちかえったのですが、全滅させてしまいました。

わたしは三姉妹で妹二人と「金田一少年の事件簿」のアテレコをしていました。
役を決めて漫画を音読していました。

とても神経質だったたときがあり、学校の花壇に生えてた雑草を折ってしまっただけで、用務員さんにあやまりにいっていたり、
給食のステンレスのおぼんにスプーンで少し傷をつけてしまっただけで、先生にあやまったり、
通学路になってた柿をとって、罪悪感に堪えられなくなりになり家でおばあちゃんに泣いて懺悔していました。
家の中に、別に何もないのに汚くて歩けない場所があったり、おふろで身体を何回も洗ったりしている時期がありました。
あるとき、そうゆうことをしているのが疲れて嫌になって、その時期は終わりました。
あのころはなんだったのかなあ、なにがきっかけでそうなってたのか不思議です。

小学生のときに歌手になりたいなあと一瞬思ったことがありました。
けれど、どこでだか美空ひばりの歌をきいて、このくらいの才能がなければプロの歌手になってはいけない、私にはその才能はないと覚り、そのとき世に出ていた女性歌手によくそのレベルでやれるなと、思った記憶があります。

夏休み中ずっと、ブラスバンド部の練習で手ぶらで学校に行っていたため、9月の始業式の日にランドセルをもっていくのを忘れて、途中で気づいて取りに帰りました。
ウケるなぁと思っていたら、その日持ってかえるのを忘れてしまったのでした。
途中でも気づかず完全に家に帰ってしまいましたが、ランドセルに宿題が入っていたため、車でお父さんと学校まで行って、ロッカーにひとつだけ入っているランドセルをもって帰りました。

わたしは三姉妹なのですが、すぐ下の二番目の妹は子供のころから向上心がないんだか達観してるのか、小学校の卒業アルバムの将来の夢に「平凡な幸せ」と書いていて、お父さんがそれを誉めていたのを覚えています。
父が何年か前にいっていたのですが、マラソン大会でも、姉妹の性質がよく出ていたらしく、一番下の妹は入賞したら父が買ってくれるゲーム目当てに、五位以内にはいり、その二番目の妹は最初からやる気を出さず後ろの方でゆっくり友達と喋りながら走っていたとのことです。
ちなみに私はというと、すごい頑張ってるけど遅い、とのことでした。

■今家族で父の実家にきていて、みんないるので家族それぞれの小学校の記憶を聞いてみました。

父(63歳)
福島の小学校に通っていたころ、友達と「ガンド橋」(ガード下にある橋がなまったらしい、道路の下に川が流れてた)に遊びにいくとき、友達のお母さんに「15時までに帰ってきなさい」といわれて出かけたが、みんな時計をもっておらず、しかし分度器(目盛りにあわせて動かす矢印のような針がついていたらしい)をもっていて、なぜか一人の子が「針がここまできたら、それを15時にすっぺ」と提案し、みんなも「そうだそうだ、そりゃいい考えだ」と賛成した。
今思うとなんで賛成したか不思議だが、真面目にそう思った。
実際は一通り遊び終わったあとに、針を15時とする目盛りに手動で動かして、「さあ、時間だからかえっぺー」と帰っただけでありました。
案の定時間は過ぎていて、お母さんから怒られたのだが、「ぼくたちは15時になったから帰ってきたんだ!」と誠意をもって真面目に言い返した。
言い返したのは憶えてるけれど、それでお母さんが何といったかは憶えていない。

妹(27歳)
サマースクールとして、夜、学校でカレーを食べたり肝試しをした。
その肝試しで男の子二人、女の子二人でまわってたら、男の子たちが、からかうか何かしてもう一人の女の子を怒らせて、その怒った女の子が男の子たちをダッシュで追いかけいって、妹は真っ暗な学校に一人取り残されてしまった。
懐中電灯もその女の子がもっていたから、光がどんどん遠ざかっていくので、恐ろしくて必死に追いかけた。

五、六年のときのクラスがやんちゃだった。
一人めちゃくちゃやんちゃな男の子がいて、誰かをいじめてるとかではなく、クラスは仲良しなんだけど、とにかくやんちゃ。
だから学級崩壊ではなかったのだが、男子が給食のみかんの皮やおでんをなげあったりしてた。
彫刻刀をなげて遊んで刺さったり、ランドセル、教科書、リコーダーを窓のそとに投げたりやんちゃ。
五年生の担任の女の先生は毎日泣いていた(女子全員であやまりにいったりしてた)。
しかし六年の担任の女の先生がユニークな先生で、ものがとんでると防災頭巾をかぶって「逃げろー」とのってくれて、さすがに危ないもののときは「それはやめなさい」と制すような先生だった。
その男の子は勉強ができなく、テストのときには、先生はその子の隣に座って、すっごいわかりやすいヒントをあげていた。

母(61歳)
小学校のときは頭がよくて、学級委員をやっていて、みんなの人気者だった。
中学受験をするべく、塾にいって、家庭教師もつけていた。
商店街のガラス屋の友達のうちにピアノがあって、うちにはピアノがなかったから、よくそこに遊びに行っていた。
そこにはお姉さんがいて、よく可愛がってくれた、姉のいない母は羨ましいなあと思った。

(菊池明明)

TSUMARI 12年8月9日

【小学校での記憶】高橋

最近に何となく小学生の時の思い出を探っていたら、一年生の時の出来事が出てきました。

国語の授業のとき、担任の先生、たぶん五十代後半くらいの、七才児からはおばあちゃんに見えていたのですが、
その先生が、教科書に載っていた「スーホの白い馬」というモンゴルの民話を音読していました。

その後半、クライマックスの馬が死ぬところで、先生が読みながら号泣しはじめまして。それでもなお泣きながら読み続けていて。
私はそれを見て、なんとも不安な気持ちになり、だんだん怖くなりました。大人が泣いているのを生で見たのは、たぶんあれがはじめてでした。

しかし一方で同級生の神田くんはそれがおかしかったのか、勢いよく笑いはじめて。周りの何人かも、たぶんそれにつられて笑いはじめて。

その笑いを聞いた先生は泣いたまま怒り、「何がおかしいのか」と、神田くんを立たせて肩を小突きながら、激しく叱責しました。
神田くんはなにも答えず、しばらくそれが続いて。

それからどう収まったのかは覚えていないのですが、その一連がとても怖かったというか、ざわざわした気持ちになったことを覚えています。

という話を思い出したのにつられて、似た話をひとつ思い出しました。

小三のとき、階段のどのくらいから飛べるかという遊びがはやり。
最終的には十四、五段から、かなりの高さから飛び降りていたのですが、ある日のこの遊びに、活発な女子の坂井さんも参加していて、宮内くんとの一騎討ちになり。
好勝負だったと記憶しているのですが、最終的には着地に失敗した坂井さんが転倒し、顔に擦り傷を負ってしまいました。
坂井さんは他に怪我もなく、けろりとしていたのですが、そのことを聞いた担任の女性の先生が、激怒しまして。
最初はそんな危険なことをするなと、全体に怒っていたと思うのですが、徐々にそれがへらへらしていた坂井さんに向きはじめ。女の子がそんなことをするなと。
最後には、かなりの剣幕で、女の子なのに顔に傷が残ったら一生が台無しだ、だからもうやめろという旨のことを、まくしたてていました。
その言いっぷりと怒りっぷりのことを、思い出しました。

長々と失礼をしました。怒る大人の話を思い出した次第です。

(高橋義和)

TSUMARI 12年8月9日

【小学校での記憶】西村

・僕が小学4年生の時の担任で山田マチコ先生という、当時20代半の先生がいました。
牛尾さんのブログでも出てきた「ちーちゃんの影お送り」は、僕も国語の授業にありました。

初めて「ちーちゃん影お送り」を、学習するので、山田先生が一度朗読してくださりました。

すると山田先生は読んで数行で、号泣してしまいました。
それでも山田先生は頑張って読もうとするのですが、何を言っているのか分からず、代わりに僕が読むことになってしまいました。

山田先生は僕が読んでも、ずっと号泣しており、結局保健室に行く事になり、その時間は自習になってしまいました。

山田先生との思い出は、これがでっかすぎてほかに思い出せません。

・”短パンTシャツ小僧”はいたとよく思いますが、ぼくの学校には、”短パンTシャツ少女”がいました。
大事な行事でも”短パンTシャツ少女”でした。

・自然学校でキャンプファイヤーの時に、クラスで出し物をしなくてはならず、僕のクラスはペンギン踊りみたいなの踊りをしたのを思い出しました。
どんな踊りかは忘れましたが、青いごみ袋被り、黄色いくちばしを作ったのを覚えています。

・小学校の卒業文集を見ていると、小学6年生にやった運動会の組み体操について書かれているのが、多かったです。

他にも「将来の夢」や「なんでもランキング」

1組 みんなの寄せ書き

2組 わくわくパッパッパズル(やりたい事・あだ名・自画像を書く)
阿部君はやりたい事に「廣くんとペアになって本格的に女になりたい」と書かれていました。

3組 なんでもランキング(先生に一言・ギャグ・10年後の自分に一言など)
ギャグのランキングは
3位 車が来るまで待とう
2位 カレーは辛れー
1位 布団が吹っ飛んだー

4組 〇〇させたら№1
西山君=本当は優しい№1
藤井さん=世間を知っているといえば№1
藤村さん=姿勢がいい№1
汐後君=森脇君に似ている№1

5組 1年間の5組について

6組 ・もしも生まれ変わったら
ゾロタリョウ・クセニア(ロシア人)=紅葉の木になって何年も生きたい。

・自分を動物・花・その他に例えたら
・10大ニュース

※画像は僕の卒業アルバムです。

・先日母校に訪問に行って来たのですが、孔雀がいたでかい飼育小屋が取り壊されていました。
話を聞くと孔雀が去年亡くなってしまい、取り壊しが決まったそうです。

またクラスの数も減っており、思い出の教室が机の物置になっていたりと、あったモノが減っていっておりすごく悲しかったです。

(西村 和晃)

TSUMARI 12年8月8日

【小学校での記憶】牛尾

私は転校を2回しているので、ちょっとごちゃごちゃしてます。

<国語の時間>
・「ちいちゃんのかげおくり」というお話を勉強しました。
内容としては戦時中のやりきれないお話なのですが、主人公の女の子がやる遊びで、
地面に映った自分の影10秒くらい見つめて、一気に空に視線をあげると残像で大きな影が見えるというものがありました。
昼休みの時間、お話の中のように空に影が浮かぶか試しました。本当はよくわからなかったけど、「見える様な気がする」と嘘をついた覚えがあります。

・「くちびる読み」というものがありました。
あまり正確に覚えていないのですが、国語の音読の為にするもので、おおげさに口をうごかしてはっきり発音させるというものでした。
音読していない生徒も、声はださず口だけ動かしていました。
私は転校したてで、みんな普通にくちびる読みをするのでびっくりしたのですが、みんなについていこうと頑張りました。
そのくちびる読みを推奨する先生がするくちびる読みが気持ち悪すぎて嫌でした。

<保健室前>

●保健室の近くの廊下には、体のことや保健にまつわるポスターがたくさん貼られていました。ともだちとよくみていました。
ペニスのことを説明してるものがあって、「テニス」と「ペニス」が一字違いなことに気づいてそれがとてもおもしろくて友達とずっと笑っていました。

●毛量が多いせいか、異様におさげが太い子がいました。常に笑顔で内股でぽっちゃりしていました。

●授業中、なぜか女の子の靴下の中からムカデが出て来て大騒ぎになりました

●帰りの会で、「忘れ物が多すぎる男の子(中村君)をどうにかしよう」という議題がでて、
反省させ、
みんなの前で忘れ物はしませんと宣言してもらった

●校歌をでたらめに歌う(転校して歌がわからなかった)

<水泳の時間>
●災害などで浸水したり、船から落ちたときに水着を着ているとは限らない、
服をきている可能性が高いから、もしもの為に服をきて泳いでみようという日がありました。
いらない服を持って来て着て実際に泳ぐということをしました。
重くなるし空気でふくらんだりで泳ぎにくかった記憶があります。
そういうときは「脱げ」といわれた様な気がします。
●塩素のにおい
●男の子か女の子かわからない子がいた(実際は女の子)
お母さんの方針?でランドセルは黒くて、顔は男の子のようだけど髪型はおかっぱ。
性別がどっちかわからなくて聞けなかったので水泳の時間に水着で判断しました。
でも女の子だけど男の子の水着を着ていたので、仲良くなるまで男だと思ってました。

<音>
●学校の裏に木がいっぱいあるところがあってそこで鳩がずっと鳴いていました。
ふくろうの鳴き声だと勘違いしていました。

<ちょっと恥ずかしい記憶というか謎な記憶>
●1年生の時、近所の6年生の女の子に便所の一室に連れて行かれ、「セックスって知ってる?」と聞かれました。
多分、知らないといったと思うのですがよく覚えてません。

道具、校舎
●掃除道具入れがちゃんと閉まらない

●学校内が土足の学校があって、掃除が大変でした。ほこりっぽく砂が多かったです。

●廊下の真ん中にある線。右側通行をさせるためのものです。

●私が転入する前、漏電で校舎が全焼したらしく、とても新しい校舎でした。
友達が、校舎が出来るまでいた臨時の教室の質の悪さを教えてくれました。
体育館だけは古かったです。
体育館の裏あたりは、昔、教頭先生がそこで自殺したということでした。
嘘かほんとかわかりません。

(牛尾千聖)

TSUMARI 12年8月8日

小学校の記憶・松井

今回の参加者にそれぞれの「小学校の記憶」を
ML上に上げてもらうようにお願いしました。
そうしたら予想以上に、
興味深い記憶が掘り起こされたように思います。

作品に反映されるかどうかは別として、
「小学校の記憶」は意外とくっきりと
輪郭線が太いまま記憶されてるもんだと
思いました。

参加者の許可を得て、
こちらに載せていきます。

僕自身の記憶はおいおい流していきます。