FARM MATSUI 14年8月16日

ファーム【2】

8月14日
 舞台上で使うテーブルが稽古場に入った。
杉山さん(セノグラフィー)がつくったもので、かなり使いがいがある仕上がり。
ここから思いつく台詞や演出はきっとたくさんある。
しかも、俳優が使い勝手を確かめようと、色々試そうとする感じがいい。

 俳優が一人で立っていることも面白いけれど、
テーブルに頬杖ついたり、イスに寄りかかったり、コーヒーカップをいじったりしてる時の
「油断」している身体が好きだ。

その「油断」具合で、どんなふうに俳優が空間と仲良くしているかが見えてくる。
緊張してると、当然だけど、イスの座り方が浅くなったり、
コーヒーをかき混ぜる動作がぎこちなくなる。

まあ、リアリズムの話ではあるのだけれど。
でも、この仲良くなり方がスムーズかどうかで、稽古の進行具合もわかるので、
目安にしてるところがある。 松井

FARM MATSUI 14年8月15日

ファーム【1】

8月9日
 今回の公演は創作日誌をつけようと思っている。今、考えていること、やっていることをなるべく自分でも整理したいからだ。
そうは言っても、演劇は集団作業なので、思っていた通りにならなかったり、
頭のなかで考えていたよりも面白いことが稽古の中で見つかったりもするので、
そんなことも書いていきたい。ネタバレになるかどうかはわからない。
でも、特にサンプルの場合、ミステリー要素が強いわけでもないので、大丈夫なんじゃないかなあという予想。

稽古場でやっていることと僕が考えていることを並行して書いていく。
まとまらなかったり、垂れ流す感じになってもとにかく書くつもり。

 『ファーム』の稽古が始まって4日が過ぎた。今回は「会話」をなるべく細かく見せていきたいと思っている。ずっと、台本を手にして、ゆっくり会話をするということを繰り返していた。この作業は俳優同士のコミュニケーションと会話内容の理解に役立つ。普通だったら反射的に発する台詞も、サーっと流してしまうような台詞もとにかく、意味内容が伝わるように相手に向けて投げかける。投げかけられた方もきちんとその投げかけられた内容を認識してから、次の自分の台詞を予想したりしてから初めて自分の台詞を見る。そこで起こる「ああ、こんな台詞なんだ」という感覚を味わってから、その台詞を投げ返すというくり返し。
 この稽古をしていると、俳優が台詞に対して違和感を持っていることや、しっくりきていることなどが見えやすい。もちろん、まだこの段階ではどっちでもいい。まずは、台詞というツールを使って、相手とのコミュニケーションを楽しめれば。役作りの一歩手前の感覚。
 この先からは、イスやテーブル、小道具など環境の中で台詞を言い合う稽古に入っていく。これまた違う感覚が敏感になっていくだろうから、それを味わってもらう。
松井

TSUMARI 12年8月26日

創作日誌8/26松井

あっという間に楽日になった。

昼のインスタレーション演劇(?)が13時から17時半まであって、
その隙間を縫って夜のイベントの稽古をして、
それ以外の食べたり、洗濯したり、お風呂入ったりがあると、
スケジュールに余裕はなくなるし、寝る時間も削られる。
この数日は誰と何を喋ったか、どこにいたのか
あまり覚えてない。

で、夜の公演の初日を終えて、何となく全体が見えてきた。
原点はこの場所が廃校ということなんだと思う。

楽日になると、よりその感覚が強くなる。
僕たちがこの学校に着せた服を
脱がす、バラす作業が始まるからだ。

今日も13時からインスタレーション演劇(?)が始まり、
夜は19時から公演もあります。
今日で最後です。

旧清津峡小学校で待ってます。
ぜひ足を運んでいただけたら幸いです。

よろしくお願いします。

TSUMARI 12年8月23日

創作日誌8/22松井

修行のような毎日。
ほとんどのスタッフ・キャストがそんな意識で
動いてるのではないかと思う。
それくらい分刻みのスケジュール。

昼間のインスタレーション演劇のボリュームがとにかくすごい。
4時間半の作品を俳優は演じ続けているし、
空間にまつわる情報も常に更新されている。

さらに夜の公演の稽古。
昼も演劇なので、二本の作品を作ってることになる。

立ち止まらないと、自分が何を作ってるのかわからないほど
いっぱいいっぱいになる。

でも今日の夜の稽古は何だか自分でもやりたいことの
方向がわかった気がした。

小学校が記憶のベースになっている人は多いんじゃないか?
けれど、思い出ってそれ自体は何のためにあるんだろう?
種の保存のためなのか?スタンプラリーのように集めて
眺めれば、ちょっとは得した気分になれるからか?

前にも書いたけど、僕は思い出をできるだけ更新したい。
人の記憶を自分の記憶とブレンドしてちょっと気持ちよくなりたい。
嫌な記憶や懺悔の感覚に持っていかれても
少しづつ中和できるようにしたい。
そして、いきなり襲ってくる自己嫌悪の念に立ち向かいたい。

記憶は更新されないと困る。

TSUMARI 12年8月22日

創作日誌8/21松井

インスタレーションの初日はもう開けました。
俳優と空間が絡み合った、居心地のいい時間になっています。
ぜひ足を運んでいただきたいと思います。

まだまだ、今度は夜の公演のための準備が必要。
昼の作品を裏側から観るというか、
フィクションの原型って儀式めいたものに
繋がるんだろうなと思ったことを
作品にしたいと考えながら作っている。

ある気配やシンボルが濃密な空間が
見方を変えれば間抜けだったりすればいいなあ。

TSUMARI 12年8月19日

創作日誌 8/18 野村

4日も日誌を書かずにいてしまいました。

今日は初めて、4時間半のインスタレーションを通しました。粗通しというような場当たりですが。
今回の作品は、空間的にも時間的にも、様々な意味で輪郭がはっきりしないつくりなので、やってみないとわからないことだらけです。
やってみないとわからないなかで、やってみていまいちなことははっきりわかる、ということが続いて、暗中模索の4日間だったのかもしれません。書けませんでした。

先ほどまで、松井さん、杉山至さん、木藤歩さん、小松陽佳留さんらとスタッフMTをしていて、やっと腑に落ちるラインが見えてきたような気がしました。
ずっと前に考えていたことが、ブーメランのように返ってきたというか、いつか考えるときが来ると思っていたことを、どういうわけか一時的に忘れていたというか、「そうだった」と膝をうつ感じがありました。
なんとなくこれで行けるような気がしています。

3日前にさんざん悩んで一つの答えを自分なりに出して、しかしながらそれが行えず、かなり追い詰められましたが、想定外の別の道が開けるというのは非常に刺激的ですし、たいがいそのほうがいいので、たぶん良い感じになるのではないかと思っています。

とりあえずあす19日はゲネプロ、そして20日から、『キオクREVERSIBLE』インスタレーションの開幕です。

(野村)

TSUMARI 12年8月15日

創作日誌 8/14 野村


なんとなく創作が動き出したような気がする。清津峡に入ったのが8/6だから、もう一週間以上経つ。ここまでだいぶ暗中模索、五里霧中というような感じで時間が過ぎていたのだけど、人が揃って、ワークショップをして、チームがポテンシャルを出し始めたということなのかもしれない。個々人がそれぞれ勝手に作品のための作業に蠢き始めた。

8/11に杉山至さん(舞台美術)、8/12に松井さんの公開ワークショップ、8/13にメンバーに向けて僕のワークショップを行った。
意外につながりが深いというか、「知覚」と「環境」をめぐってある道筋を行くような関連があった。
至さんのは、知覚を開くということ、そして、五感をクロスさせるということを扱い、松井さんは、知覚を開いて、身体と環境を引き金にして言葉を生み出す/着せ替えるというような感じのことを扱っていて、僕のは、あらかじめある知覚を疑って環境に働きかけるということ、そして、観る者にとっての見えが物語をつくるということを扱った。サンプルの作品づくりを共同で行なっていくにあたって、有用な実践が詰まったWSになった。

ワークショップでも焦点となったのが、生/素の環境と、フィクション/物語を被された環境というような部分。これがまさに「REVERSIBLE」な両面をつくるわけだ。
今回の作品づくりにとって、もっとも「生な環境」、それは「清津峡小学校」という場、建物、そして事実というか歴史というか、それがかつて存在した小学校であり、今は閉じられてしまっているということ。
この生の環境とうまく関係が取れるフィクションをかぶせることが、今回の作品にとって最後までこだわらなければいけない部分になる。

それはたぶん、がっちりとスクラムを組んだ物語ではいけないけれど、かといって、支離滅裂な断片でもいけない。
サンプルのクリエーションでは常に抱えることになる不安は、この、反転を可能にするフィクションの織りというか、網目の目の、きめ細やかさの加減、というか、生の素材を覆い尽くしはしない、粗い網目の粗さの調整だ。

そのために、もうちょっと考えるべきことがある/よく考えないといけないというのが現状かなと思っています。

(野村政之)

TSUMARI 12年8月14日

創作日誌8/14松井

今日はほとんどの人が清津峡を観に行った。
校舎の中にばかりいると発想が行き詰るだろうし、
気晴らしにもなればいいなあと思って。。
僕は以前観に行ったので、野村君と居残りでミーティング。

午後から創作作業。
メンバーが空間やモノから発想することに慣れてきたのか、
スムーズに進むところも多かった。
けれど、大事なのは「人間」に関わる部分だったりする。
モノや空間からはみ出してしまっている「人間」の存在が
生々しく、あるいは、とっくに死んでいるかのように
迫ってくるように、環境をチューニングしていく作業を
続けている段階。

TSUMARI 12年8月14日

創作日誌8/13松井

昨日は僕のワークショップで、主に僕が考える
「言葉のコスプレ」と「言語じゃない言葉」について
をやった。参加者は作品キャスト・スタッフと地元の方一名。
「言葉のコスプレ」とは
ある「存在」に対して言葉が貼り付けられた時点で
それはもう言葉によるコスプレが行われてるだろうという見方。
そう考えると、「壁」も「床」も名付けられた時点から
極端に言えば、「壁」という役を演じてるし、
「床」という役を演じているんじゃないか?ということ。
「言語じゃない言葉」とはアルトーからの引用で、
人間の使う「意味」の言語ではなく、
モノや空間が発する「具体的で物理的な」言葉という意味。
光や音や温度や質感など、モノや空間側から発せられる
人間の知覚を刺激する言葉。
その二つの考え方をおおざっぱにまとめると、
僕はモノや空間を主語にして物事を考えることだろう。
「あの質感が、あのにおいが、光が僕を誘っている」
という感じ。

今日の午前中は野村くんのワークショップから始まった。
「知覚を疑う」
視覚や聴覚、そしてその統合した感覚で起きる
錯覚の話、つまり人は無意識に、
どうしてもある決まった見方、聴き方、感じ方で
世界を把握しようとしているということ。
もちろん個体差はあるにしても。
だから、そこから少し感覚をずらし、反転させて
世界を把握し直そう、あるいはもっと過激に妄想を
膨らまそうという話だと僕は受け取った。

参加メンバー(今日は一般公開していない)がその後に
作った作品はどれも面白く、刺激的だった。
空間とモノを使って常識を覆して遊びつくすものばかりだった。
学校ってこんなに遊べるのかと実感した。
しかも、やっぱり俳優の存在が大きいと確信。
俳優の身体がはさまることでモノと空間の世界が
変化していった。

TSUMARI 12年8月12日

創作日誌8/11松井

今日はほとんどの後発メンバーがこちらにやってきた。
そしていきなり、セノグラファー杉山至さんの
ワークショップを受けてもらう。
これはだれでも参加できるワークショップで
地元の方と上越からふらりとやってきた方が
参加してくれた。

至さんのワークショップは本当に面白い。
まずは自分の身体の知覚を活性化させるところから始まり、
活性化させるということは、
つまり、自分と空間との境目を意識することに繋がり、
ひいては、境目の連続で成り立っている「環境」にまで
意識を拡大させていくという流れ。

しかも今回は空間を「空目」するというか、
気になる箇所に妄想を種まき、スケッチしていくということを
やることで、物語の「芽」を育てるような流れが
最後にあった。

これは今回やろうとしていることとかなり近くて
僕にとっても今回参加しているメンバーにとっても
かなりのヒントになったと思う。

また、参加してくれたメンバー以外の方の発想も
演劇関係者からは出てこないもので、
つい近視眼的に作品を作ろうとしてしまうことに
気付かされた。

明日は僕と野村くんのワークショップ。
今日は「空間」のことをやったので、
明日は「言葉」のことをやるつもり。

14−17時の予定です。

是非遊びに来て下さい。

TSUMARI 12年8月11日

創作日誌8/10 野村


今日は午前中、清津峡地区をあいさつに回り、午後は、大地の芸術祭・越後妻有トリエンナーレ2012の他の作品を観に行きました。

いくつか観たなかで、一番印象が残ったのはボルタンスキーの『最後の教室』。インスタレーション自体を楽しんだのは言うまでもありませんが、廃校を使ったインスタレーションという点では、私たちと同じ土俵の作品なので、いろいろと参考になることがありました。
あと、作者・ボルタンスキーはこの作品を、冬季に下見に来たことから着想したとのこと。そう言われてみると、あの薄暗闇には、雪で閉ざされた建物の内部の感じがきちんと紛れ込んでいたようにも思えます。

遡って私たちの最初の下見は、2月の末。大雪の降る中の移動でした。
僕の人生では初めて見る雪の量、どこもかしこも雪だらけで見通すことが出来ない。雪が止んだ翌朝は早くから皆屋根から雪下ろしをしていて、屋根の上の雪は分厚く、これはたしかにすぐ雪下ろしをしないと、放っておいて家が安泰なまま春がくるとはとても思えないさまでした。

午前中のあいさつの最後に、小出地区の山の上のほうを訪れました。急な勾配の坂をあがるといきなり開けた棚田地帯があり、その中に2世帯だけ家があります。ここは2月の下見のときにも訪れていたのですが、今日見た美しい緑の景色からはまったくそのときのことが想像できませんでした。いわれてやっと気がつくほど、全く様相が違うのです。

展示を見て回っている最中に少しだけまつだい農舞台にも寄りました。ここも2月の下見で訪れていたのですが…、見えるものが全然違う! あらゆるものが覆い尽くされていたのだなと思うほど、展示物があり、開けた田園地帯に突然現れる高床の農舞台はちょっと異様で、夏がマッチしている建物なのか、冬がマッチしている建物なのか、そのあたりがちょっとわからなくなりました。

昨日話題に出した「REVERSIBLE」はこの妻有地域自体にもある。それが、夏と冬、という両面。
私たちはいま、凌ぎやすい気候で、あおあおと稲穂や木々が茂るこの地域に滞在して作品を制作しているわけですが、ここに暮らす方たちは、毎年、この夏と冬のダイナミックすぎる違いを当たり前のこととして受け入れて生きている。
今は「夏」だけれど、「冬」という裏面の背景をまったく考えないで作品をつくるということは、私たちにはできないだろうと思います。
その意味で、2月に下見に来たのはとってもよかったな、と振り返りました。

MATSUI TSUMARI 12年8月10日

創作日誌8/9松井

合宿って大変!
毎日の生活をキープするだけで
当然だけどあらゆる労力を使う。
食事、掃除、洗濯、買い出しなどの隙間に
創作を行う形になる。
このサイクルをスムーズにこなさないと
なかなか創作環境に入れない。
というか、創作環境を作るためにこれまでの数日間があったのかもしれない。
でも今日は教室に椅子、机などを運び込んで
朗読や習字をやってみた。
これまで机や椅子もなかったので
人がぎっしり入って、椅子に座り、机に向かって集中しているさまに
とても強い磁力を感じた。
ただ、一方でここに見えている風景は仮の姿であることを忘れてはならない。
清津峡小学校はすでに廃校であり、僕らはここの生徒や先生であったことはない。
そこに生じる白々しさにどう耐えるか?
環境を無視してウソをつくのと、
環境に適応してホントにそこにいることが
結局は二つとも同じこと言ってるよなあという地点で
作品を作りたい。
演劇にはそれができるはず。

TSUMARI 12年8月10日

創作日誌8/9 野村


今回の作品のタイトルは松井さんと相談して決めました。
『キオクREVERSIBLE』
タイトルをつけたときには、さして何も考えていなかったのですが、創作が進むにつれて、このタイトルが非常に重要なキーワードに(やはり)なってきました。
記憶、そして、REVERSIBLE。

「記憶」というのは、私たちにとって、なんにせよ、一つの支えともいえるような、至極身近な存在です。しかしながらそれはときに「事実」とは異なっていて、「思い違い」や「捏造」を引き起こす余地を持っている。

そして、「REVERSIBLE」。
数ヶ月前に軽い気持ちで、だいたいこのくらいの言葉がいいだろうということで決めたものが、ブーメランのように、時間差で返ってきているような感じで、この言葉にこのところひどく付きまとわれています。
REVERSIBLEというのは「あるひとつの様態のものが、また別の様態にもなる」という意味合いでもありますし、また、「反転」「ひっくり返し」というような感じで、ことによると「全く反対の状態にもなる」という意味合いももっています。

ところで、乱暴かもしれませんが、言ってしまえば演劇も/演劇こそ「REVERSIBLE」です。
演劇で行われていることは、ほとんど、ウソ。「ウソ」だという了解のもとに様々なことが行われるうちに、何故か、それが「ホント」のことのように感じられてくる。
「ウソ」が「ホント」に反転する事態、が演劇である、といえなくもありません。

「記憶」が”どう”「REVERSIBLE」であるか。ホントの記憶がウソの物語にひっくり返ったり、ウソの演技がホントの体感にひっくり返ったりする、そのウソとホントの可変性と緊張関係。あるいはウソとホントが寄り添って共に存在している状態。現実と虚構が寄り添って共に存在している状態。

このことが、今回の作品で示されるであろうことであり、創り手としては作品として提示しなければいけない、或る「質」なのだろうと思います。

(野村政之)

TSUMARI 12年8月8日

創作日誌8/8松井

僕もこれから創作日誌をこちらに書いていこうと思います。とりとめのないことを書き連ねていくとは思いますが、なるべく考えていることそのままを書いていくつもりなので、眺める感じで読んでいただけると幸いです。

清津峡小学校に入って三日目なので、まだ掃除と買い出しがメイン。これから作品の内容をどうするか具体的に決めていく段階。

今回の作品は「記憶って着せ替えられるのか?」というところから始まっている。
記憶は個人的なものだけど、「懐かしい」とか「あるある」という感覚は共有できるものだと思う。そういう時って一体何が起こっているんだろう?
自分の記憶を誰かの記憶と接続させた時に、記憶がミックスされて、なかったこともあったことになってしまったり、その逆も起こっているのだろうか?
でも一方で、久しく離れた場所に久しぶりに戻った時に襲われるような記憶は、とても個人的なものだと思う。けれど、それはやっぱり本当に自分の中の記憶なんだろうか?それとも、その場所から人を刺激する花粉のようなものが放出されていて、それに反応しているだけなんじゃないだろうか?
ちょっと飛躍するけど、演劇って、人が持っている「記憶」っぽい箇所(アレルギー物質の受容体のようなもの)を刺激する要素の連鎖で作られているような気がする。
その要素は何でできているのだろう。言葉なのか、人間なのか、においなのか、光なのか、手触りなのか、音なのか。
でも、そういう要素を集めて作ったフランケンシュタインのようなもの(蘇った寄せ集めの死体)と対面するのが演劇の醍醐味なのかもしれないと思って作業を進めようと思っている。

TSUMARI 12年8月7日

創作日誌8/7 野村

テスト・サンプル02『キオクREVERSIBLE』昨日から、創作のため清津峡に入りました。
このブログでは、いくつかの角度から、『キオクREVERSIBLE』についての記録・記事・情報をお届けします。

「創作日誌」と題した記事では、松井さんと私が、創作過程でいま考えていることを文章にして掲載していきます。

私は、ドラマターグを担当している野村と申します。
(「ドラマターグ」…簡単に言うと、コンセプトから上演の細部までを演出の松井周さんに寄り添って一緒に考えているメンバーです)

というわけで今日考えていたこと。

旧清津峡小学校の校舎は、今は学校としては使われていない廃校ですが、「廃校」といったときにぱっと思い浮かぶような、古い木造の建物ではありません。平成6年に完成した、鉄筋コンクリートの、比較的新しくきれいな建物です。
ただ、清津峡という地域ゆえ、といいますか、どこにでもあるような校舎ということもなく、設計やデザイン、部屋の数の少なさや、こじんまりとした雰囲気など、学校としてはいくらか変わったところがあります。
あと、現在は地域のコミュニティセンターのような役割や、災害時の避難場所という役割を果たしていて、必要な物資や道具が保管されているということもあります。
一方で、この校舎になる前から、清津峡小学校はこの場所にあり、今は写真でだけ残っている旧校舎や、この場所というもの自体に記憶を宿らせている地域の方もいる。

このように、新しさと古さ、現在と過去、実状と記憶といったことがが乖離しつつ入り混じっている場で、どんなパフォーマンスをするのが相応しいのか。…おそらくは、この「入り混じり具合」ときちんと向きあって、相応しい配分で、今まで計画してきたことをこの校舎、この校庭にインストールするのがよいんだろう…、というようなことを感じています。
そのうえでいくつか、インストールするにあたって、作業の手がかりになるキーワードが必要。きっとそのキーワードはこの作品の大枠の意味合いを示すものでもあるんだろう。。

今日までは生活環境の整備を中心に作業をしてきて、明日からいよいよ創作の作業が始まります。
実際に作業を進めながら、このことを、粘り強く、考えて、見つけていきたいと思います。

(野村政之)