本作『永い遠足』は、フェスティバル/トーキョー13からの委嘱によって生まれた作品です。委嘱にあたりF/Tプログラム・ディレクターの相馬千秋さんからは、「ギリシア悲劇『オイディプス王』をモチーフに新作を」というオーダーがありました。
F/Tでの新作上演が決まった後に夏の新潟での滞在が決まり、メンバーのスケジュールも鑑みた結果、『遠足の練習』上演という形で『永い遠足』のプレ創作を行うことにした、というのが実際の流れです。
もっとも、60分ほどの中篇となった『遠足の練習』はそれほど『オイディプス王』がモチーフとされたものではありませんでした。松井周が現在作品にしたい内容と、前回ご紹介したような越後妻有の環境から拾い出した要素の化学反応で構成されていましたし、新潟入りした時点では『永い遠足』というタイトルも確か『グレイトジャーニー』というような仮タイトルで、F/Tでの上演を前提に全て視野に入れていたわけではありませんでした。
連夜、旧上郷中学校のコンピュータ教室で打合せをする中で「永遠」と「遠足」を掛けた『永い遠足』というタイトルを思いついた、というような具合です。
でも『永い遠足』の登場人物が『遠足の練習』にも登場しています。あと、設定もほぼ変わっていません。『永い遠足』のキャストはほぼ全員新潟に行き、新潟から現在まで、同じ役を演じています。
…というような経緯ですので、今回のクリエーションにあたって、前提に置かれたのは『オイディプス王』の現代的翻案…『オイディプス王』という物語を軸にまず持ち、それを現代に置き換えていくというようなことではありませんでした。
すでにある『遠足の練習』の戯曲や軽トラ舞台と、F/Tでの上演に向けた創作の環境条件という具体的な状況と向き合いながら、その視野の周辺にチラチラと『オイディプス王』があったというのが10月初めの段階。言い換えれば、プレ作品『遠足の練習』を発展させていく上での、不確定要素のひとつとして『オイディプス王』があったという感じです。
ちなみに、F/T13のWebサイトやパンフレットの『永い遠足』を観ると、「生命の起源から高度先進医療まで」「現代版〈人間/生き物〉観察記」というようなキャッチフレーズもありますし、『永い遠足』のチラシには「家族が脱皮の準備を始める。」というようなワードも出ています。これらも同様に、クリエーションの過程では、目の上のなんとやらでチラチラしていたわけです(笑)。
では、『永い遠足』と『オイディプス王』はどのような関係にあるのか。
クリエーション最終段階となった今、出来上がっているものから今回の作業を言葉にすると、それは、「現代の日本に想を得た物語に『オイディプス王』をどう “映り込ませる” ことができるのか」そして、「『オイディプス王』と現代の日本をどのように共振させることができるのか」ということだったのだろうと思います。
10月1日(火)の「F/T13アーティストフォーラム」で、「物語を旅する」というF/T13のテーマを中心に、それぞれの参加演出家が自らの作品との関連についてディスカッションを行いました。
この中で松井周が『永い遠足』における『オイディプス』や「物語」の扱い方についてコメントをしていました。簡単にまとめると、「『オイディプス王』では、コロスの視線によって、語る主体(オイディプス)が自ら物語に縛られていって、最終的に目を抉るところまで行ってしまう。「物語」は、良くも悪くも、着たり脱いだりできるものだと思う。脱ぎ着できない物語には抵抗したい」というようなこと。
左:F/T13アーティストフォーラム(10/1)/右:スタッフMT(10/19)
『永い遠足』において、『オイディプス王』は図式的に取り入れられているというよりは、ある種の断片、振動=バイブレーションとして細部に溶け合わされています。ギリシア時代の扮装の役者が出てきたり、王でも無い一般人が王のように振る舞ったりというようなことはないですし、また、様々な登場人物の振る舞いや物語のディテールに『オイディプス王』の要素(「コロス」「オイディプス」「アポロンの神託」…などなど)が分散して遍在しているようにも思えます。
あくまでも現代を生きる松井周と『永い遠足』のメンバーが発想し、身体を持ち寄って生み出している現代の物語でありながら、やっぱり『オイディプス王』の世界に見えてきてしまう。そんなふうに仕上がってきていると感じています。
ここに至る過程で何回も台本を改稿してきましたし、まだ今も、にしすがも創造舎体育館の空間との対話を通して、作品は反応・変化を繰り返しています。この変化、脱皮、変態(!)の過程で、いくつもの発見が埋め込まれました。携帯アプリのアップデートのように頻繁に塗り替えられる度に、『オイディプス王』「生命の起源」「高度先進医療」といった不確定だった要素と『永い遠足』の潜在的なつながりが発見されてきたという感覚があります。
看板に偽りなし。いずれにしても、これまでの過程や広報で表明されてきたことは実装した、といってもいいと思っています。
F/Tパンフや『永い遠足』チラシにあるような様々な要素が一体どのように組み上げられているのか?
ぜひ劇場で、自らの目で(←『オイディプス王』だけに笑)、お確かめいただきたいと思います。
【文:野村政之】
(第三回につづく)