10月2日
前回、
<「家族」「生殖」「精神」これらのフィクションから自由になることを目指したい。>
と書いたが、補足すると、
<「家族」「生殖」「精神」(にまつわる様々な言説=フィクションっぽいもの)から自由になることを目指したい。>
ということを言いたかった。
<「家族」「生殖」「精神」はフィクションにすぎない>
ということを言いたかったわけではない。というか、こういう言い方は、それこそ「フィクション」という感じがする。わかりにくくてすみません。
つまり、「家族」「生殖」「精神」などを虚構だ!と断罪したいわけじゃないということ。
誰でも家族がいて、何らかの手段で生まれてきているし、何かを考えたりするやり方や基準があったりする。
それは当然のことだろう。
しかし、それらの言葉には「家族とはこうあるべし」「生殖とはこうあるべし」「精神とはこうあるべし」という定義化がいつもついてまわる。
ある言葉の周辺にはいつもそういう定義化が起こるのだとは思うが、それが権力や集団と結びついてスローガンになっていったりすると、気持ち悪い。
ただ、一方で、そのような定義化をしないでいられるほど人間は強くない気がする。言葉の定義化を済ませてるから、やっとのことで社会生活を営めてる(ある言葉についてそれ以上深く考えなくていいから別のことができる)のだと思う。
前にも書いたかもしれないけど、ある現実に対して言葉でピン止めをすることで、現実が雪崩を起こさないように、崩壊しないようにする。そのために言葉は大事だと思っている。「机」や「本棚」や「床」や「光」にそのような名前がなかったら、不安でしょうがない。原始社会に住んでいたら、違うかもしれないけど。
だから、言葉が生まれたからには、その定義化が起こり、それを守ることで不安を取り除き、その定義化から外れた、どうしてもわからない部分は超越的な存在に全て任せようと「神」を想定したのかなあとか思う。
逆に、言葉によるあらゆる定義化から自由でいるために、「芸術」が生まれたのかなあとも思う。
でもまあ、こういうことは色んな人が色んなふうに書いているだろうから、
僕としては、名付けるという行為からフィクションが始まっているということを
まずは言いたかった。
その中でも特に
「家族」「生殖」「精神」というフィクションが僕にとっては重要だということ。
松井