◆『シフト』のこと
(野村政之)
野村 『シフト』の初演、2007年の時はどういうことを考えてたんですか?
松井 初演の時は、ここから「サンプル」(初演時は「青年団リンク サンプル」)が始まったから、最初にどういうふうに「サンプル」を作りたいか、「サンプル」っていう言葉自体にあった形をみせたい、と思った。まず、「人間関係を人間視点で人間の心理を辿るようにに書かない」こと。『通過』(2005年初演/2009年再演)の時もそうだったんだけど、それをもうちょっと打ち出したかったから、犬のブリーディングになぞらえて、「血統のいい何かを作ろうとして交配させる」というのを人間の世界に当てはめてみて、それで人間がどう見えるのか、違和感があるのかそれとも「意外と人間ってこういう風に生きてるかも」というように見えるのか。どっちに捉えてもらってもいいんだけど、「酷いけど犬と同じように捉えて書こう」と、「それが伝わればいいなぁ」と考えて創ってたかなぁ。「人間というのは自分で思ってるほど人間的じゃないですよ」という。
野村 初演のときはどういう風に受け取られてたんですか?
松井 どうだったんだっけなぁ。そういう風に受け取られたかどうかは自信がないんだよね。どっちかっていうと、物語として受け取られていたかなぁ。村で起こる近代化の中で伝統行事を無理矢理復活させる人工性みたいな感じを面白がってもらってたし、もちろんそれは狙ってたとこでもあるんだけど、そういうのが多かったかな。でも、僕としてはさっきも話した「ゾンビ的に生きてるというのはどういうことか」という考察の一環だった。サンプルでは「ゾンビ的に生きる人間」というのを書きたいと思ってたから、それを意識的にやった初めて作品っていう感じ。
野村 前近代というか、村の方を変なものだという風に見てるのではなくて、松井さん的にはどっちかといえば村=前近代の方が「図」で、近代の方が「地」っていうことなんですよね。
松井 そうそう、一周回って前近代が戻って来たのはスーパーの進出があったから。今でいう「ゆるキャラ」とか「町おこしブーム」で変なことを始めて、それを無理矢理途絶えた伝統行事とくっつけようとし始めるところに人間の営みの面白さを感じて。つまりそれは伝統行事をやっても昔の伝統行事ではなく一回途絶えたものをもう一回物語化するというか、昔話を現実化しようみたいな感じで、村の方が人工的に考えている。
野村 僕自身は観てないんですが、聞いた感想では「村に対して歯が立たない感じは自分だと思った」って言ってる方も居たんですけど、それはミスリーディングだったということなんですかね。そういう感想を期待してそれをやってたわけじゃないんですよね。
松井 あー、そうねぇ。でもそれもやっぱりあるよ。村の人間関係の中での人間の扱われ方も面白いと思ってて。ちょうど「よさこい」ブームの時だったのかなぁ。
晴子(登場人物)がタケノコ族みたいな格好してたのは、「よさこいって人工的だよね」ということで、でも「よさこい」を始めたっていうのは、資本主義で置いてかれたところをもう1回巻き返すために、村の村らしさ、伝統のレプリカのようなある種の現代的、人工的な祭りをもう1回呼び込むということで。
ただ、ぐじゃぐじゃって混ざってるね、「前近代」と「近代」という感じが村の中にもレイヤーとしてあるというか。どっちってわけでもない。でも、近代から取り残されてこういう村=前近代が残ってるという風に書いたつもりではなくて。むしろ最先端を突っ走ってるというか、その村で起こってることが引き起こされたのは資本主義がそう促してるんじゃないかと思って創ったかなぁ。
野村 そういう意味で、今回はどう観点が変わってると思いますか、現状で。
松井 『地下室』(2006年初演/昨年・今年再演)のときもそうだったかもしれないけど、さっき言ってた「ゆるキャラ」ブームとか、B級グルメとか、「資本主義のちょっとしたアイディアで村が盛り上がる」みたいなことが、何か今は前面化してるのがあって。あと、例えば犬のブリーディングのように何かを村人たちが交配させていくっていう感じ…というか、交配しないにしても「デザイナーベイビー」のような、「遺伝子を操作することで自分の好みにあった子供を生んでいく」というような感覚も出始めてる。
野村 そうですよね、もちろん科学的なこととしてでもあるんだけど、ゲノムとかバイオテクノロジーのようなことで言えば、元々は動物に考えてたことと同じことを人間にあてはめて、それをより細かくして、生命を人工的にコントロールすることを考えてる。「むしろそこに人間の希望、未来があるんだ」と考える傾向が、技術的に現実味が出て来たからこそ強くなってるかもしれない。アンチエイジングなんかも。
松井 だからね、「今やっても最先端なことと結びつけて見られるんじゃないかな」という気はするんだよね。そういう風に見て欲しいし、ある種グロテスクではあるけど、そのグロテスクさに私たちは進んでる気がする。
野村 『地下室』はどっちかっていうと集団のコミュニケーションの問題だったと思うんだけど、『シフト』はその集団がしきたりや掟みたいルールを持っていて、人間が踊らされてて、それによって自分で生命をいじっていくような感覚、そこにフォーカスがあるんでしょうね。『地下室』の時にもiPS細胞とか言ってましたけど、実は『シフト』の方がそういうことに近いのかな。
『シフト』2007年初演 ©青木 司
松井 「生殖」ということだよね。やっぱり。生殖の捉え方が、多分もう変わり始めるな、という。もちろん少子化とかのほうの背景もあるけど、まさにその「毛並みのいい犬とか、顔の整った犬を作るように人間を作っていく」というような感じに対して、前だったら「グロテスク」という方向で捉えられたかもしれないけど、「その未来があり得る」という今の状態の方が怖いし。…怖いっていうか「全面的にそれがいけないかどうか」まだそれは言い切れない。
例えば遺伝病とか、「プレイ」という「モノの考え方」で変えられない部分が遺伝にはある。だけど生命科学技術について「元々生きてるならプレイで変えてもいいじゃん」って言う発想を酷いとは言い切れない。今は倫理とかでダメって言ってるけど、そう変わっていくことを受け入れる可能性もあるなぁ、と。「どうなるかわかんないな」というところの狭間にいる。そのことに対する問題提起じゃないけど「どうすかね?」「どう思います?」みたいなこと。だから、初演の時よりむしろ今の方がぴったりなテーマとして言えるかもしれない。
前だったら、「前近代の風習や慣習に基づくのお話」っていうような捉え方で「ああこんな怖いことが昔はあったんだ」みたいな、「『楢山節考』って怖いね」ってそういう風に捉えて終わった人もいるかもしれないけど、今になって「これから先の未来のことだ」と引き寄せて考えてもらえたら嬉しいかなと思う。
デザイナーベイビーもそうだし、「ダウン症の出生前診断の遺伝子検査をして陽性が確定した人の9割が中絶した」という話を最近たまたま聞いて。それはもちろん個別の事情もそれぞれあると思うんだけど、今までだったら建前でも受け入れるとか、「遺伝子的に可能性があってもこの生命を」と考えたかもしれないのが、そうじゃない価値観も結構今はあるなぁと思う。Wrongful life訴訟(*)にしてもそう。
Wrongful life訴訟でいえば「出生前にそういうことがわかってるのに何故生んだ?」という主張もあるけど、「それは可能性でしかないから、そうじゃない可能性もある」っていう主張もあって。この前知り合いに聞いた話では、出生前に「こういう欠陥の可能性があるでしょう」っていう風に言われた人がいて、「どうしよう?」と思ったけど産んで、検査したけどなんともなかったということがあったとも聞いた。ということは、中絶で生まれなかった子供ももしかしたら障害がなかったかもしれない。あと、「じゃあ障害があったら生まないのか」という問題にもなっていくと思うし…、「じゃあ障害って何?」というのもある。
このことを考えていくとオーバーヒートを起こすけど、でもだから「これからは操作が出来る」「検査である程度信憑性を持たすことが出来る」…そういう今だからこそ、生殖の問題は結構リアルに迫ってくるんじゃないかなという気がするんだよね。
*:Wrongful life訴訟
子が先天性障害を持って出生した場合に、子自身が「医師の過失がなければ、障害を伴う自分の出生は回避できたはずである」と主張して提起する損害賠償請求訴訟。「存在する私」が「私が誕生しなかったほうがよかった」=「存在自体が損害」として「存在する私に対する賠償」を求めて起こすという事態になる。2000年にフランスで原告勝訴となった事例がある。
(終わり)