サンプル旗揚げ作品『シフト』の再演を控え、
サンプルのドラマターグ野村政之が松井周にインタビュー。
「『永い遠足』を経て…」、「『シフト』のこと」2回に分けてお送りします。
(左:野村政之 右:松井周)
◆『永い遠足』を経て…
野村 前作の『永い遠足』(2013.11/フェスティバル/トーキョーで上演)では、観た方から色んな反応がありました。ラストシーンの演出や、久保井研さんが出ていたこともあってか唐十郎さんとなぞらえられたり、一方、『オイディプス王』の「父殺し」よりも「母との関係の執拗さ」から寺山修司との比較で言われたり、或いは高橋英之さんのワンダーランドの劇評では、「ネズミ」っていうモチーフから大江健三郎〜村上春樹とつなげて考えられていたり。更には、岡田利規さんが「日本の演劇の王道」というような意見をいっていた。
そういうふうに、今まで以上に戦後史、文学史、演劇史みたいなことと関係付けて観られた、という一方で、一般的には「青年団出身」「現代口語演劇」みたいなことで理解されている?ようなことになってる。
なので、松井さんが自分の活動と歴史をどう考えているのかというのを『永い遠足』が終わった今の時点で聞いてみたいと思うんです。いかがですか。
『永い遠足』©青木 司
松井 でかいなぁ!それ。面白い。どうだろうね。どっから話そうかなぁ。基本的には多分、歴史を戦略的に使っているということではなくて、好きな感覚をパッチワークしているということは確実で、それは意識的というより、どちらかというと無意識な部分かな。
で、今名前が上がった人たちの好きな部分を吸収しているところはやっぱりあって…寺山修司で言えば「『私』という謎」みたいな感じ。「演技をしている時にこそ自分の存在みたいなものがチラチラと垣間見えるものだ」という言い方。だから「私は自分をフィクション化する」というその感覚はすごくしっくりくるし、僕の「プレイ」っていう言い方はその辺から貰ってきてると感じてる。
一方、唐さんの場合は、身体というか「パーツ」だと思うんだけど、パーツが全体を凌駕する。身体一個そのものがその人を代表するんじゃなくて、パーツである足であったり顔であったりといったものが実はすごく強く印象を与えていて、そこから妄想が広がる感じ。人間は一個の全体ではなくてバラバラのものがバラバラに繋がっている。一回分解した人間をおもちゃのように一回組み立て直す。それも一つのプレイ感覚なんだけど…、そういう風に見ていく感覚を唐さんから受け取ってるなという実感はある。
大江健三郎さんに関して言うと…これは実は僕の中の「ゾンビ感」とつながってて、あの人はすごく戦後民主主義的な振る舞いでいるんだけど、そんなバランスの取れた人間じゃなくて、小説を読んでいると、ちょっと怪物というか変な人たちがいつも出てくるというイメージがある。例えば「ネズミ」っていうのが出てくる『万延元年のフットボール」。人がよくわからない名前をつけられていて、ちょっと人間っぽくないところから人間を全然違うフィルターで見て描写してるなっていう感じがある。振る舞いとのギャップもあってずっと好き。今喋ってみて、そういうつながりはもしかしたらあるかもしれない。
それで、岡田さんがいう王道であるっていうものの捉え方はどこから来てるのか僕もちょっと謎だというかどの部分がそうなのかなとは思うんだけど…
野村 DOMMUNEの時には、唐さんの名前も出てたけど岩松了さんのことも言っていて、普通は別個にされるようなものも両方摂取して、松井さんが自分のものとして表現を作っているという部分に着目してるんじゃないかなという印象は受けました。
松井 やっぱり何かしら自分の感覚にヒットするものを…まぁ、最初は模倣から始めたかもしれないけれども。オリジナルな感覚を積み上げようとしてる、或いは形にしようとしてる人達に対するリスペクトが自分の中にもあるし、自分でもそれを心がけようと思ってるかなぁ。
野村 そうすると、今の時点で松井さんから見て「日本の演劇史ってこういう軸があるんだ」というはっきりした見出しがあるというよりも、触感的なところだとかディティールのパッチワークが結果的にそうなってる、という感じなんですかね。
松井 でもそれは完全に感覚的なところのみを頼りにしてるわけじゃなくて、太田省吾さん、寺山さん、唐さんがテーマに挙げてることを考え続けてるっていうのはある。
どういうことかっていうと、例えば太田さんが「社会的価値」というものを「価値があるものとして描くような戯曲に対して違和感がある」と、「『存在そのものがただそこにいるだけで価値があるんだ』ということを演劇としてやりたい」ということを言っていた。ただ存在がそのまま浮かび上がる、というか、まぁ動物的な価値なのかもしれないんだけど。
野村 中身というか「質」みたいなことですよね…「quality」というか。
松井 そう。それに重きを置きたいんだ、という風に言ってること。それはイデオロギーが吹き荒れている時代だからこそ、そのアンチテーゼで言ったんだとも思うし。僕もそのことはずっとそうだなと思ってるけど、現代まで来て、今度はイデオロギーっていうものがほとんど現実的でない、となってきた時に、別の言い方、別の価値みたいなものをどう捉えられるのか。或いは、社会から価値を決められて行く中で、予め決められた価値を「脱ぎつつ着る」みたいに、そのくらいの言い方をして行く方が、太田さんの言ってることを現代に生かせるんじゃないか、みたいなことを思ってる。
野村 つまり例えて言えば、衣服が社会的なモノだとして、それを充実した素っ裸の価値の身体に着せたり脱がせたりする、ということですか。
松井 そう、そういう感じ。(笑)
野村 なるほど、すごくわかりました。それに付け加えると、「社会的」という風に言葉にすると概念・理念・言葉に寄って行くんですが、「政治的」という言い方をした時には、身体と場が問題になってくると思うんです。そのときに、どうやって内側から線を引いて場=プレイグラウンドを確保するか、ということが、実は政治的な振る舞いとしてある。だから乱暴な言い方をすると、太田さんが「素っ裸の価値」を言えたってことは、その時には自分のプレイグラウンドを安定して確保出来てたんじゃないかなと。僕の感じで言うと、アングラがなんですごく政治的だったかといえば、そもそも劇場が無かったからだと思っていて。
だから今までは、相対的に言えばですけど、演劇としては充実した「質」が第一だったし「それ一本でもいいんだ」という気持ちだったんだけど、今は、別にそれを捨てるという意味ではなく「その充実した質をどういう場に、どういう風に置くか」が重要だと思う、ということですよね。
松井 そうそう、そこは時代によって変わって来てるだろうし、裸だっていうことに対して、「それも裸プレイじゃん」ということに対応していかなきゃいけない。「裸です」ってプレイしていくことでは、ちょっともう対抗出来ないじゃないかなって感じがある。一方で太田さんが言いたいのは、「裸に貼り付けられていくあらゆる基準とか価値とかに対してきちんと脱がしていくことが重要」ということで、そのことは、今でも思ってるかな。
野村 枠組みとしての政治性とか、かぶいていく姿勢、つまり「衣服」だけが問題にされるようなことが多くて、演劇として中の「充実した質」…つまり上演自体の質がそもそもないんじゃないか、という意味での問いかけですね。「演劇をやるということはその質をたっぷりと膨らませて行くことなんじゃないの?」という主張。
松井 うんうん、そうだね。
野村 とすると、仮にその「質」が手に入ったなら、何を着せたり脱がしたりしてくのかというのが問題なんですかね。
松井 その「質」をどう捉えるか、で僕の中では寺山修司と関係してくるというか、「質っていうのはそんなダイレクトに顔を出さないな」という感じで。どんどんフィクション化することの中から、それでも残るっていうか…「残る」って言い方もしないと思うんだけど…「自分」というフィクション…「フィクションである」という感覚の方がしっくりくるかな。思考の仕方、自分というものを自分で考える時の感じもそうだし、相手が自分をみる時もそうだと思うんだけど。
「存在に価値がある」ということはすごく理解できるんだけど、その「存在そのもの」が「真」であるっていう言い方じゃなくて、「存在そのもの」が常に変わっていく、ということ。「真」という言い方は合わないかもしれないけどそれが存在なんだ、というか。人間はすぐにさっき言ってたことと違うことををするし、言ってしまうし、錯覚もするし、自分の役割をすぐに絶対化しちゃうし、常に色が変わっちゃうんだけど、そういうことも含めての「人間のフィクション性」、「フィクション化してしまう動物であること」というか…そういうものを見せたいなぁと思ってる。
(第二回につづく)