今回の作品のタイトルは松井さんと相談して決めました。
『キオクREVERSIBLE』
タイトルをつけたときには、さして何も考えていなかったのですが、創作が進むにつれて、このタイトルが非常に重要なキーワードに(やはり)なってきました。
記憶、そして、REVERSIBLE。
「記憶」というのは、私たちにとって、なんにせよ、一つの支えともいえるような、至極身近な存在です。しかしながらそれはときに「事実」とは異なっていて、「思い違い」や「捏造」を引き起こす余地を持っている。
そして、「REVERSIBLE」。
数ヶ月前に軽い気持ちで、だいたいこのくらいの言葉がいいだろうということで決めたものが、ブーメランのように、時間差で返ってきているような感じで、この言葉にこのところひどく付きまとわれています。
REVERSIBLEというのは「あるひとつの様態のものが、また別の様態にもなる」という意味合いでもありますし、また、「反転」「ひっくり返し」というような感じで、ことによると「全く反対の状態にもなる」という意味合いももっています。
ところで、乱暴かもしれませんが、言ってしまえば演劇も/演劇こそ「REVERSIBLE」です。
演劇で行われていることは、ほとんど、ウソ。「ウソ」だという了解のもとに様々なことが行われるうちに、何故か、それが「ホント」のことのように感じられてくる。
「ウソ」が「ホント」に反転する事態、が演劇である、といえなくもありません。
「記憶」が”どう”「REVERSIBLE」であるか。ホントの記憶がウソの物語にひっくり返ったり、ウソの演技がホントの体感にひっくり返ったりする、そのウソとホントの可変性と緊張関係。あるいはウソとホントが寄り添って共に存在している状態。現実と虚構が寄り添って共に存在している状態。
このことが、今回の作品で示されるであろうことであり、創り手としては作品として提示しなければいけない、或る「質」なのだろうと思います。
(野村政之)