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【小学校での記憶】菊池明明

2012.08.10

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東部小からきた、五、六年生のときの担任の男の先生。
漢字テストのこたえあわせのときの「大勢」の発音がへんで、流行っていました。
「おお」にアクセントがつく。先生はこどものころ、排気ガスを吸うのが好きでよく車のうしろですってたそうです。
あとは新任で来たときの挨拶で、全校生徒の前で犬の遠吠えをしたりして、ユニークで好きでした。

ある女の先生のパンツのライン。
赤いジャージをはいていた先生は、黒板のしたのほうに字をかくとき、足を広げて腰をおとし、お尻をつきだして書くので、赤いジャージにパンツのラインがみえていて、気になってみてしまいました。

「先生、あのね」ではじまる日記を、クラスで、書く時間がありました。

東京からの転校生おしゃれでイラストがうまいやっちゃんが、ティッシュの中に遊びのお誘いを書いたのを私にくれてすごく嬉しかった。
やっちゃんのいるグループに憧れをもっていました。

東京からの転校生のHくん。
スポーツ万能で萩原聖人似、ランドセルはつかわずに、ワインレッドのリュックをしょっていた。
一方、絵がうまくて、芸術的な雰囲気のSくん。
HくんかSくんか、クラスの女子はたいていどちらかのことが好きでした。

教室で女子同士でキャーキャー盛り上がってたら、金切り声が耳にひびいて辛かったようで、Uくんという男の子が泣きながらぶちギレて、髪の毛わしづかみにされた。
すごい髪の毛ぬけて、びびった。

校庭の土が四年生くらいのとき、水はけをよくするために、茶色い土から、白っぽい砂利みたいなやつになって、こけてヒザとか怪我すると、すごいいたかった。
すれて血で赤い傷口に白いじゃり。

クラスだけのカラオケ大会でチャゲアスとシャ乱Qを歌いました。
机を前につめてステージにして、隣のクラスの子たちが後ろのドアの窓からのぞいていました。

いきものがかりで、夏休みなのでクラスで飼ってためだかの赤ちゃんを家にもちかえったのですが、全滅させてしまいました。

わたしは三姉妹で妹二人と「金田一少年の事件簿」のアテレコをしていました。
役を決めて漫画を音読していました。

とても神経質だったたときがあり、学校の花壇に生えてた雑草を折ってしまっただけで、用務員さんにあやまりにいっていたり、
給食のステンレスのおぼんにスプーンで少し傷をつけてしまっただけで、先生にあやまったり、
通学路になってた柿をとって、罪悪感に堪えられなくなりになり家でおばあちゃんに泣いて懺悔していました。
家の中に、別に何もないのに汚くて歩けない場所があったり、おふろで身体を何回も洗ったりしている時期がありました。
あるとき、そうゆうことをしているのが疲れて嫌になって、その時期は終わりました。
あのころはなんだったのかなあ、なにがきっかけでそうなってたのか不思議です。

小学生のときに歌手になりたいなあと一瞬思ったことがありました。
けれど、どこでだか美空ひばりの歌をきいて、このくらいの才能がなければプロの歌手になってはいけない、私にはその才能はないと覚り、そのとき世に出ていた女性歌手によくそのレベルでやれるなと、思った記憶があります。

夏休み中ずっと、ブラスバンド部の練習で手ぶらで学校に行っていたため、9月の始業式の日にランドセルをもっていくのを忘れて、途中で気づいて取りに帰りました。
ウケるなぁと思っていたら、その日持ってかえるのを忘れてしまったのでした。
途中でも気づかず完全に家に帰ってしまいましたが、ランドセルに宿題が入っていたため、車でお父さんと学校まで行って、ロッカーにひとつだけ入っているランドセルをもって帰りました。

わたしは三姉妹なのですが、すぐ下の二番目の妹は子供のころから向上心がないんだか達観してるのか、小学校の卒業アルバムの将来の夢に「平凡な幸せ」と書いていて、お父さんがそれを誉めていたのを覚えています。
父が何年か前にいっていたのですが、マラソン大会でも、姉妹の性質がよく出ていたらしく、一番下の妹は入賞したら父が買ってくれるゲーム目当てに、五位以内にはいり、その二番目の妹は最初からやる気を出さず後ろの方でゆっくり友達と喋りながら走っていたとのことです。
ちなみに私はというと、すごい頑張ってるけど遅い、とのことでした。

■今家族で父の実家にきていて、みんないるので家族それぞれの小学校の記憶を聞いてみました。

父(63歳)
福島の小学校に通っていたころ、友達と「ガンド橋」(ガード下にある橋がなまったらしい、道路の下に川が流れてた)に遊びにいくとき、友達のお母さんに「15時までに帰ってきなさい」といわれて出かけたが、みんな時計をもっておらず、しかし分度器(目盛りにあわせて動かす矢印のような針がついていたらしい)をもっていて、なぜか一人の子が「針がここまできたら、それを15時にすっぺ」と提案し、みんなも「そうだそうだ、そりゃいい考えだ」と賛成した。
今思うとなんで賛成したか不思議だが、真面目にそう思った。
実際は一通り遊び終わったあとに、針を15時とする目盛りに手動で動かして、「さあ、時間だからかえっぺー」と帰っただけでありました。
案の定時間は過ぎていて、お母さんから怒られたのだが、「ぼくたちは15時になったから帰ってきたんだ!」と誠意をもって真面目に言い返した。
言い返したのは憶えてるけれど、それでお母さんが何といったかは憶えていない。

妹(27歳)
サマースクールとして、夜、学校でカレーを食べたり肝試しをした。
その肝試しで男の子二人、女の子二人でまわってたら、男の子たちが、からかうか何かしてもう一人の女の子を怒らせて、その怒った女の子が男の子たちをダッシュで追いかけいって、妹は真っ暗な学校に一人取り残されてしまった。
懐中電灯もその女の子がもっていたから、光がどんどん遠ざかっていくので、恐ろしくて必死に追いかけた。

五、六年のときのクラスがやんちゃだった。
一人めちゃくちゃやんちゃな男の子がいて、誰かをいじめてるとかではなく、クラスは仲良しなんだけど、とにかくやんちゃ。
だから学級崩壊ではなかったのだが、男子が給食のみかんの皮やおでんをなげあったりしてた。
彫刻刀をなげて遊んで刺さったり、ランドセル、教科書、リコーダーを窓のそとに投げたりやんちゃ。
五年生の担任の女の先生は毎日泣いていた(女子全員であやまりにいったりしてた)。
しかし六年の担任の女の先生がユニークな先生で、ものがとんでると防災頭巾をかぶって「逃げろー」とのってくれて、さすがに危ないもののときは「それはやめなさい」と制すような先生だった。
その男の子は勉強ができなく、テストのときには、先生はその子の隣に座って、すっごいわかりやすいヒントをあげていた。

母(61歳)
小学校のときは頭がよくて、学級委員をやっていて、みんなの人気者だった。
中学受験をするべく、塾にいって、家庭教師もつけていた。
商店街のガラス屋の友達のうちにピアノがあって、うちにはピアノがなかったから、よくそこに遊びに行っていた。
そこにはお姉さんがいて、よく可愛がってくれた、姉のいない母は羨ましいなあと思った。

(菊池明明)