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『蒲団と達磨』が終わって

2015.03.27

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『蒲団と達磨』が終わって10日ほど経ちました。終わった翌々日から映画美学校アクターズコース4期生の公演『石のような水』の稽古に入っていて、「終わった」という感覚よりも「始まる前」の感覚が強いです。
さて、みなさまは『蒲団と達磨』をどのように受け止められたのでしょうか?

僕は『蒲団と達磨』という戯曲をずっとやってみたいと思っていました。大学の時に岩松さんの戯曲を夢中になって読んでから。口語的な台詞と不機嫌そうな登場人物と、人間関係の摩擦の中で突如噴き出す性欲(?)の爆発/不発に夢中になりました。
それで思いっきり真似した戯曲も書いたりしたのですが、今でもその延長上で書いているという感覚もあります。ただ、『蒲団と達磨』を再読し、演出することで、色々と違いに気づくこともありました。

岩松さんの戯曲の根底に流れる性欲の水脈のようなものは、その欲望を否定されることで発見され、しかも否定されたので、仕方なく性欲を隠すかのように代わりの欲望にシフトしていきます。ただし、それを抱えた個人に負荷がかかり、いずれ爆発する可能性を高めます。

僕の場合は、性欲を否定されるというところまでは近い気がするのですが、それが例えば男対女の関係を、親対子、上司対部下の関係に変化させようとしたり、あるいは対象全体に対する欲望を、部分(例えば手のみ)に変化させていくというところがあります。
つまり、欲望ごと都合のいい方向に書き換える(「変態」させる)という感じです。物語を書き換えて、現実を「プレイ」と思い込もうとします。だから、爆発するというよりも、自我を薄めるというか、空虚を抱えるというか。自意識を持つよりは「プレイ」の内容に合わせて自分をあやふやにしていくという感じでしょうか?環境に合わせてゾンビのようにウロウロするようなイメージです。

しかし、そこにも無理はきっとあるはずです。現実の総「プレイ」化という事態がそれでしょう。あえて何かの「プレイ」にノッてみるという行為が実は問題を発生させるというか(いじめ、虐待、ヘイトは、冗談とかしつけとか正義のルールにのっとって行われる、集団の「プレイ」)。問題を単純化し、現状を肯定し、皆をひとまとめにしていこうとする大政翼賛的な思考法です。

僕はもともと現実の厳しさを引き受けていくためには「プレイ」が必要だと思ってきました。あらゆる関係を「プレイ」であると考えられれば、そこから降りることも全然可能であると。「世界は演劇だ!」というアレです。それが物語の効用でもあるし、演劇が現実にツッコミを入れ、笑い飛ばすものであるという感覚があるからです。しかし、最近どうも、本来なら現実とバランスを取るためのカウンターとしての「プレイ」が、いつの間にか全面化し、現実を見えなくしているという感覚が強いです。

総「プレイ」化に抗うためにどうしていくか?これは難しいことなので簡単には答えが出ません。丹念にこの総「プレイ」化状態を追いかけて、脱線させたいということも考えますが、それだけじゃ足りない気もしています。そこら中にポッカリと穴を開けている現実について考え続けるしかないのでしょう。

とはいえ、まずは身体のことから考えます。『蒲団と達磨』の世界というか、岩松さんの世界の斬新さは、「言ってることとやってることがどうもずれている人間たちの群像劇」です。元をたどればチェーホフや岸田國士などの系譜かもしれませんが、それを不気味と言えるほどの手触りまで持って行ってるのは、やはり岩松さんだと僕は思っています。環境や状況のノイズによって、無意味とも思えることを喋らざるを得ない。オリザさんの言う「人間はそんなに主体的に喋らない」という見方の通りです。

『蒲団と達磨』は80年代最後に書かれています。イエ制度が形骸化しつつも、介護問題や、夫婦関係に影響し、貧困やDVの問題も表立ってではありませんが、絡んでいます。これまでの日本では当たり前とされ、隠されていたものが露わになっています。夫がもはや大黒柱となりようもないのにそのように振る舞いつつ、妻は夫に従いつつも抵抗し、家を脱出しようとしている。

僕の中では、そのような現代口語演劇の特徴を、人間のゾンビ化の始まりというか、中身はあまりないのだけれど、環境に合わせてどうにか辻褄を合わせて生きている人間(「プレイ」にノル人間)だと考えています。だから、『蒲団と達磨』を演出することは、自分の原点を振り返るという意味でした。

俳優が自分の五感のセンサーを働かせて、あるノイジーな空間の中で、誰かと摩擦を起こしたり、すれ違いつつ存在すること、しかも戯曲はそのような存在としての俳優を想定して書かれていたというのが、僕が『蒲団と達磨』を演出したかった理由です。このやり方で、なるべく多くの方に現代口語演劇の世界を体験して欲しいと思いました。そして、この作品の感触は、近代劇の完成形とも現代演劇の始まりとも(ゾンビ演劇の始まりとも)言えそうな要素が揃っていたとも言えそうです。。

さて、では次のサンプルの公演はどういう方向に進むのか?

という、そのことを考える前にまずはサンプルの外で恐縮なのですが、映画美学校アクターズコース4期生公演で松田正隆さんの『石のような水』を演出します。こちらも僕のルーツと勝手に思っている松田さんの戯曲なので、色々発見があります。そのことも書いていけたらと思っています。

よろしくお願いします。

松井周